総合評価 ★★★★☆
初学者のために量子コンピューターの理解に必要な最低限の道具立てだけを切り抜いて編纂された本書は非常に挑戦的な一冊だと言えよう。
もちろん本書で量子力学の体系的な理解は出来ないものの、量子現象の面白さは十分に伝わる内容であり、その現象を利用した量子コンピューターのメカニズムを端的にかつ容易に理解出来るようになっている。
量子コンピューターが概念装置としてどのように実現しているのか、ということを理論的に理解する最短経路を狙って章立てやコンテンツが整備されているので非常に教育的だろう。
後は好みの問題だが、もう少し数学的な説明を初学者向けに充実した方がバランス良いのではないかと思う。
また本書はあくまでも導入なので、物理的・ロジック的な実装面での理解を求める場合にはさらに発展的な文献に当たられる必要がある。
読者対象
本書は"Quantum Computing for Everyone" Chris Bernhardt, The MIT Press Cambridge の翻訳版である。
対象読者は
- 高校数学まで学んでいてあと少しの努力が出来る人
- 量子コンピューターを平易であり、しかし数学として理解したい人
ということらしい。
通常、量子コンピュータは量子力学が良く分かっていないと理解出来ないものであり、量子力学を数学的にしっかり理解しようとすると、その数学的道具立てを学習するだけでも大変な努力を要する。
更に、物理学についても基本を良く理解していないと量子力学までたどり着けない。
つまり量子コンピュータを理解することはめちゃくちゃ大変!
そう考える人にはかなり新鮮で夢のある提案だ。
実際はどうだろう?
著者
Warwickユニバーシティで数学の博士号を取得後、Fairfieldユニバーシティの数学教授。
主な著述はコンピュータ理論であり、数学や物理、コンピュータ・サイエンスを含む分野がメインとのこと。
第1章 スピン
量子力学の導入としてスピンの説明、特にシュテルン=ゲルラッハの実験から入るのは王道だ。
シュテルン・ゲルラッハの実験はとても不思議な現象で意味不明過ぎるところが量子力学の面白さが伝わる部分なので良い(というかこの現象こそが量子コンピューターの根本原理なのでよく理解してもらう必要がある)。
また偏光フィルターの実験についても紹介されている。これは光が横波であるから偏光フィルターを通過するという概念を図で説明した方が不思議さがもう少し伝わり易いのではないかと思った。
第2章 線形代数
この章は線形代数の基本事項のおさらいなので、学んだことがある人には自明なことだろう。
学んだことが無い人にはもしかしたら少し説明が足りないと感じることもあるかも知れない。
特に、通常の線形代数とブラケット記法は少し勝手が異なるので初学者がつまづくのかも知れない(逆に知らない分気にしないで読み進めるのかも知れないが・・)。
いやしかし、むしろこんな最低限の数学的道具立てで良いのか?と驚いて欲しいものだ。
複素線形代数も登場しなければ、演算子やハミルトニアンもオブザーバブルも固有値も無い、シュレディンガー描像とハイゼンベルグ描像の対応も無い。(そう言えば数学の道具じゃないけど量子力学の導入で必ず出てくる不確定性原理すら出て来ない!)
それでも大丈夫ということだ!
第3章 スピンと量子ビット
第3章では、第1章で見た不思議な実験結果を線形代数の言葉を用いて説明する方法を学ぶ。
極めて基本的なことであるが量子力学が通常の自然言語で説明が難しい力学であることが良く分かるだろう。
ただBB84プロトコルの状況設定の説明はもう少しかみ砕いて解説して良いかと思う。
せっかくの量子ビットを用いた通信という本書らしいテーマに最初に踏み込んだ話題だったのだが、ちょっと駆け足に進めるのはもったいない。
第4章 量子もつれ
量子もつれの状態を現象面の説明から入ろうとするのではなく、数式とその解釈によって簡潔に説明することで量子もつれのフォーマリズムをまずは理解させた上で、通信の可能性と現象面の理解に触れるアプローチとなっており、さらに深い理解は後の章にゆずっている。
この説明の仕方は初学者にとって判り易くて良いと思われる。
第5章 ベルの不等式
ベルの不等式について、簡単な系を例に実際に計算を行うことで理解できるようになっている。
古典的な解釈と量子論的解釈では、同じ現象と思われている事柄について得られる結果が異なり、実験では量子論的な説明の方が支持されていることなど基礎的な事柄が述べられている。
そして結局この不等式の存在が、量子ビットを用いた通信が傍受されているか否かを測定する決め手になるというエッカートプロトコルの説明に至る。
欲を言えばこのエッカートプロトコルをもう少し数式を用いてじっくり解説をして欲しかった。
第6章 古典理論、ゲート、および回路
コンピュータの構成要素として、その最小単位である論理演算をするゲートの解説とブール代数の関係が判り易くまとまっている。
そしてビリヤードボール・コンピューティングの方法で、小さな粒の衝突・反射で論理ゲートが概念的に設計出来ること、ひいてはそれが量子コンピューターの考え方に繋がっていくことを端的に示している。
情報理論の基礎をさらっとおさらいしているが、初めての人にも必要最小限でかつ分かり易いのではないだろうか。
第7章 量子ゲートと回路
この章ではCNOTを実現する量子ゲートが天下り的に与えられている。
実際にどうやって実現するのだろう?という疑問を持ちながら読むよりはそういう概念装置があったとしよう、という姿勢で読んだ方がストレスが無いだろう。
そこさえ乗り越えれば「超高密度符号化」や「量子テレポーテーション」という何かの必殺技のような名前がついた現象について比較的すんなり進むと思われる。
しかし、やはり章の最後にはどうやって実現するのかについてもう少し具体的な説明が欲しかった。
最後の章でハードウェア(製品レベル)の概説があるが、リアルな実験装置のレベルで量子ゲートがどう実現されるかについて例示などがあれば良かった。
第8章 量子アルゴリズム
本書の山場の章だ。これまでのインプットをふんだんに使って量子現象を用いて特定の問題を解くアルゴリズムが紹介される。
それが役に立つアルゴリズムかは置いといて、特定の問題であれば古典的なコンピューターを用いて実装されるアルゴリズムに比べて桁違いに高速に解くことが出来る事例を示している。
ドイッチのアルゴリズム、ドイッチ=ジョサのアルゴリズム、サイモンのアルゴリズムの3つが紹介されている。
これは極めて比較的単純な未知の関数のある性質を特定するためのアルゴリズムの検討であるが、詳細な手続きの理解は結構手間が必要で読者の頑張りどころだろう。
それでも極めて単純な問題設定の場合のみ概念的にどうやって問題が解かれるのかが分かるが、もう少し難しい応用についてはどうしたら良いかは全く分からない。そこを知りたい読者は本書より発展的な書物や論文に当たられる必要がある。
第9章 量子コンピューティングの与える影響
現在主流の暗号方式であるRSAがショアのアルゴリズムが実現したら無効化されてしまうという話を皮切りに、量子コンピューティングが応用できそうな対象について様々な事例が紹介されている。特に化学現象の計算など「量子の問題は量子に解かせる」という発想で膨大な計算量が発生する問題への応用が期待されている。
また商用ハードウェア関連の最近の動向が簡単に触れられている。
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